『Burn. -バーン-』を読んで
加藤シゲアキ先生の著作を読んで感想を述べるシリーズの4回目は、『Burn. -バーン-』(以下『Burn.』)について。今回も実家へ戻る飛行機の機内で読了した。それにしても私はシゲちゃんの本を飛行機で読みがちである。ものすごいとりとめのない文章になってしまってちょっと恥ずかしい。追記から。
『ピンクとグレー』を思わせる、過去と現在を行き来して物語が展開していくこの作品。すごく読みやすかった。途中もうちょっと説明があった方がいいと感じる場面は何度かあったが、全体にわかりやすかったように思う。読後感としては、「渋谷サーガ」3作品のなかで個人的には一番好きだった。
簡単にあらすじを述べる。新進気鋭の演出家として活躍するレイジは、演劇のアカデミー賞と言われるウィッカー賞を授賞、晴れて“ウィッカーマン”の仲間入りを果たす。その受賞式で、レイジは子役時代に共演していたという世々子と再会する。しかしレイジは、その当時の記憶だけがポッカリと抜け落ちてしまっていた。新作の舞台の準備に行き詰ったレイジは、当時の記憶を徐々に取り戻していこうとするが―。こんな感じだろうか。
- 「レイジ」という名前
まず私が注目したのが、主人公の名前「レイジ」だった。恐らく他にも指摘している方がいらっしゃることと思うが、「レイジ」という名前から英単語の“rage”を想起することは難くない。
1 激怒,憤激,憤怒;(…に対する)激しい怒り(at,against,over...);発作的激怒,怒りの発作[激発].
2 (風・波・火勢・病気などの)激しさ,大荒れ,猛烈さ,猛威;嵐,暴風
3 (感情・欲望・空腹などの)激しさ,強烈さ
4 強い欲望,渇望;(…を求めての)熱望;欲情,色情(for...)
5 熱心,熱意,熱情;感興,霊感
6 (the rage) 非常に人気のあるもの;売れっ子
7(古) 狂気.
8(俗) らんちき騒ぎ,浮かれパーティー,ダンスパーティー.
all the rage 大流行で,大はやりで
出典:ランダムハウス英和辞典
物語を読み進めると、この“rage”という単語のもつ意味が、徐々に主人公の「レイジ」と重なっていくのがよくわかる。全てを達観したような子供で、常に感情を押し殺していた売れっ子子役のレイジは、ホームレスの徳さんとドラァグ・クィーンのローズとの出会いによって、ようやく自らに与えられた名前の通り「レイジ(rage)」へと変貌を遂げていく。それまでは感情を押し殺していた彼は、求められる演技と自分の理想とする演技との間に差異があったとき、これまでにない熱意をもって監督に意見する。監督に対しぶちまけたその思いが叶わなかったとき、再び感情の門戸を閉じるかに見えたレイジは、母親の小百合に対し、その憤怒の矛先を向けるのである。そして、徳さんの死後上級生のいじめっ子に徳さんやローズとのかかわりを馬鹿にされたレイジは激しい怒りを覚え、それを全身全霊でぶつけるのだ。この時彼は「身体に亀裂が入ったみたいに、感情が零れていく」「どばどばと溢れる感情は歯止めが利かず、喋れば喋るほど亀裂は大きく広がっていった」*1とまで述べている。物語の冒頭の激しさや熱さとは無縁だったレイジを思えば、彼がいかに大きな変化を遂げたかわかるはずだ。
もちろんこの物語は、与えられた世界の中でしか生きてこなかった世間知らずの少年レイジが、一風変わった人々と出会い、交流を持つことによって新たな扉を開き自我を芽生えさせていくという、彼の成長物語として捉えることもできるだろう。しかし、他人の顔色ばかり窺って、自らの感情を心に秘めていたかつてのレイジは、果たして本当のレイジだったと言えるだろうか。ずっと抑圧されてきた本来の「レイジ(rage)」が爆発(Burn)し、真の「レイジ」が表面に顔を出す過程が描かれた小説と捉えることは出来ないだろうか。
少々脱線するが、例えば安達秀夫は名前の持つ恣意性についてこのように述べる。
名づけること、あるいは命名が、相手に対する一種の権力の行使であることはよく知られている。たとえばアダムが、目の毎に連れてこられた動物たちすべてに「名前」をつけているのも、そうした動物たちに対する人間の「支配権」もしくは「統治権」を示すものだった(「創世記」1:28)。*2
物語における命名は、基本的に作者が行うものだ。作者の手によって、登場人物の誰かが「(名付け)親」としての役割を与えられ、他の人物へ名前を授ける場合もあるだろう。*3『Burn.』ではレイジの名前の由来や名付ける過程は特に述べられていないから、作者である加藤シゲアキが、レイジに「レイジ」という名前を授けたことになる。
名は体を表すとはよく言ったものだが、レイジが「レイジ」という名前を手にしたとき、その瞬間からレイジは「レイジ」として生きていくことを余儀なくされてしまう。*4どんなに始めはレイジらしくなくても、生きていくうちにレイジらしさを身に纏い、レイジとして立派に成長していくことを求められるのである。「レイジ」とはそんな抑鬱した感情を爆発させることで、人間らしく成長して欲しいという作者の願いが込められた名前だったのかもしれない。もちろん、この辺りは作者に投影して読んだ方もいらっしゃることだろうと思う。
- 「火」「炎」の描写
続いては「火」や「炎」の描写について。タイトルである『Burn.』にも通ずるこの描写だが、少々しつこいほどに、執拗に繰り返される印象を受ける。
私が「火」と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、ソローの『ウォールデン 森の生活』*5だった。この物語をすっっっごいアバウトに要約すると、文明人であるソローが、森の中にあるウォールデン池の湖畔の小屋で二年間自給自足の生活をした際の記録なんですけど、『森の生活』冒頭で、ソローは「熱」についての独自の見解を展開し、人間が食べることと、燃料を燃やして暖をとることを「熱」を保つものとして同等と位置付ける。
この『森の生活』の中で、ソローは「熱」に対する人々の受容の違いについて、ダーウィンの言葉を引き合いに出してこう述べる。
彼の一行は十分に着物を着て火のそばに坐りこんでいてちっともあったかすぎるということはないのに、それらの裸の野蛮人はもっと火から遠くはなれているにもかかわらず、「そんなにあぶられるのでたらたら汗を流している」のを見て、自分は大いにおどろいた、と。同様に、ニュー・ホランド人は、ヨーロッパ人が着物を着てふるえているのに裸でいてちっとも困らないそうである。これらの野蛮人の頑丈さと文明人の知性とを兼ねそなえることは不可能なことだろうか?*6
ここで述べられているのは、典型的な文明(=都会、先進国、裕福)VS野蛮(=田舎、途上国、貧困)の構図である。「熱」を保つということに関しては全ての人類に共通することなのに、文明人はしばしば富を持ち学もある自分たちの方が優秀であると思い込む。しかし、貧しさゆえに教育を受ける機会がなかったことと、持って生まれた賢さは天秤にかけることができない。例えばディケンズの『オリバー・ツイスト』は、もともと高貴な身分の生まれの者がどんなに落ちぶれても、最終的に元の身分に回帰すれば幸せに暮らすことが出来るという物語だし、バーナード・ショーの『ピグマリオン』のように、いやしい身分の者でも努力すればそれ相応の階級のように振る舞うことが出来るという物語だってある。ソロー自身、出稼ぎに来ている木こりについて「彼は、人生の最下層にも、いかほど常住に卑賤で無学であろうとも、常に独自の見解をもち、あるいは全然わかったような顔つきをしない―暗く泥深いかもしれないが、あだかもウォールデン池がそうであると思われているとおり、底知れない天才的人物が存在するかもしれないことを暗示していた*7」と述べている。
そろそろこいつ何の話してんの?って思われそうだし、大学3年の時に書いたレポートから内容を持ってきてるのがバレそうなので話を戻す。なんでここまで一見無関係な話をつらつらしてきたかっていうと、この文明VS野蛮の構図って、レイジと徳さん(そしてローズも?)の関係と一緒なんじゃないかと思ったからだ。
レイジは確かに孤独だった。家庭にも学校にも職場にも自分を本当に理解してくれる人なんていなくて、いつも周りが求める子供らしさを演じているような子供だった。でも見方をかえると、離婚してもなおレイジを育て、彼の仕事のために奔走してくれる母親がいる。自分で稼いだ富だってある。みんなが羨むような芸能界の人々と交流を持つことだってできる。レイジは間違いなく成功者の部類に入るはずだ。
一方徳さんは、かつて経営していたバーが火災になって以降ホームレスとなった。出火原因は煙草。これは私の推測だが、その火事で亡くなったという「くぜ ちよこ」という歌手は、徳さんの最愛の人であったんだろう。そんな徳さんが渋谷再開発浄化作戦への抗議の焼身自殺を実行する。ホームレスでありながら頭の回転は速く、物知りで、マジックだって達者だ。間違いなく優秀な人間であったはずの徳さんだが、ホームレスである以上彼は否応なく野蛮人に分類される。
確かに成功者であったレイジだが、幸せではなかった。お金があっても、心は貧しい子供時代だった。対して徳さんは、確かにその日の暮らしに困るようなホームレスであったかもしれないが、心は豊かで、いつも楽しそうにみえた。物理的な貧困と、心理的な貧困は反比例する、というのがソローが『森の生活』で述べたことであり、これは作者が『Burn.』で述べたかったことの一つでもあると私は考えている。
私には、徳さんはとにかく温かい人にみえた。私の解釈だが、ヘビースモーカーだったのは、恐らく火災で亡くなった「くぜ ちよこ」さんを忘れないためだろうと思う。そして、抗議の手段に焼身自殺を選んだのも。彼はきっと自らの身体に火を放つ機会をずっと待っていたんじゃないのかなぁとさえ感じてしまう。それほどまでに「火」のイメージが付きまとう人だった。
『ピンクとグレー』はごっちとりばちゃんの物語であると同時に、主人公河鳥大が執筆した、自殺した幼馴染白木蓮吾についての暴露小説(作中では映像化され、河鳥が白木役として主演を務める)のタイトルである。『Burn.』も同様で、この小説の表題であると同時に、作中レイジが脚本を書き上げ、主演を務める舞台のタイトルでもある。なぜ彼は『Burn.』というタイトルを付けたのだろう。私は考えてもそれらしい理由付けが出来なかったので、誰か考察してみてほしいなぁと思う(他力本願)
作中に出てくるレイジ・アゲインスト・マシーンの「ゲリラ・ラジオ」。少し調べてみたのだが、これは3枚目のアルバム「バトル・オブ・ロサンゼルス」に収録されているようだ。その3曲目の「Calm Like A Bomb」と、5曲目の「Sleep Now In The Fire」がなんとなくこの小説にリンクしている気がした。ずっと爆発前の爆弾のように静かだった幼少期のレイジに火を点けた徳さんは、今や火の中で静かに眠っている。
*1:『Burn.』p.219
*2:安達秀夫(1997)「ダーバヴィル家のテスとヤヌスの神話(1)」、『立正大学文学部研究紀要』13:1-42.
*3:例えばハリー・ポッターシリーズにおいて、"ハリー"の名付け親はシリウス・ブラックであると明かされる場面がある。harryという単語には"慢性的に悩ませる"という意味があるが、ハリー自身ウォルデモートとの戦いで生き残ったことで、自らの意思に反し常に注目を浴びることに悩んでいたので、この命名はある意味正しかったと言えるかもしれない
*4:最近流行りのキラキラネームだと、どんなに真っ当に生きても名前に追いつくことは出来なくて、改名でもしない限り名前に負け続ける人生を送るのだろうか
*5:
- 作者: H.D.ソロー,Henry David Thoreau,飯田実
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1995/09/18
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引用箇所の頁は 神吉三郎訳『森の生活(ウォールデン)』岩波書店、1991.より
*6:『森の生活』pp.29-30
*7:『森の生活』p.198
社会人1年目ジャニヲタが使ってる化粧品をさらす記事
下地はRMK。結構崩れるから新しいの試してみたいんだけど、面倒なのでなくなるとついつい買ってしまう。
ファンデはRMKの2番目に明るいやつ。これも面倒くさがりなので結局買ってしまうやつ!完全なるリキッド派。
コンシーラーは資生堂のスポットカバー。前はBOBBYの筆タイプの使ってたんだけど、そんなにコンシーラーに重きを置いてないのでこれに落ち着いた。
パウダーはミラコレ。2年ごとに予約して買ってる。持ち歩きにくいのでポーチにはお直し用に別のを入れてる。後で紹介します。
マスカラはランコム!!!もうランコム一択!!!今手元にあるのはイプノーズのミニマキシだけど、他にあと2本持ってる(名前を失念)。本当は今手元にない二本が気に入ってるんだけど、日本未発売品だったらしくリピできないのでちびちびと使っております。
眉毛は全部KATEw一番明るい色の眉マスカラ(写真に写ってない)を塗り塗りして、パウダーの一番濃い色で眉尻を描き、薄い色と中間色を混ぜて全体をひと撫でする。
写ってないけどアイラインはラブライナー一筋。高校生のころからずっと使ってる。平日は目尻だけ、休みの日はしっかり引きます。
アイシャドウはジルとルナソル。今回ジルしか持って帰ってきてないのでお写真はジルのみ。アイシャドウで遊ぼうっていう考えはないのでブラウン系しか持ってないです。このジルのはちょっと赤みブラウンなのでAWにぴったりだな〜と思ってる。2年くらい前に買った。
リップ系は大量に持ち歩いております。DHCのリップ、Diorマキシマイザー、ポルジョ、MAC。ポルジョはオレンジ寄りのコーラルピンクで、MACはピンクベージュ。このMACの色味が本当に大好きで、家に予備が2本あるwDHCのリップもずっと切らしたことないくらい大好き!!最近は顔で粉吹いてるなと思ったところにちょんちょんと塗ることもw後はマキシマイザー。貰い物なんだけど、やっぱり塗ると縦じわが消えるし唇がふっくらするし欠かせない。
チークはポルジョ。プレゼントでいただいたもの。他ブランド使いたくてもケースから買うのが面倒なのでずっとリフィルをリピしてるというwcinémaっていう色だったかな??本当はNARSがちょっと気になる。
お直し用のパウダーはこの前発売になったばかりのベネフィークのプレストパウダー!ベネフィークなのにケースが嵩張らない!いい!と思って買った。結構つけたては白浮きするんだけど、すぐ馴染む。これはブラシでつけるよりパフでつけた方がいいなぁと思う。本当はNARSの被り率No. 1というパウダーが欲しかったんだけど、完全に衝動買いしてしまったので大人しく使います……
以上自己満ブログでした〜〜。写真のセンスのなさには目をつぶっていただきたい。今Burn.の感想書いてるので、年始のお休みの間になんとかしようと思います。
手越祐也に歌ってほしいyasu (Acid Black Cherry・Janne Da Arc) の曲16選
私の夢の話はこのくらいにしておくとして、手越祐也がL'Arc〜en〜Ciel (以下ラルク)のhydeに憧れているのはある程度知られていることだろう。2人には実際に交流もあり、書籍『THE HYDE』ではお揃いのiPhoneケースを(当時)付けていたことが暴露されているほか、次のように述べられている。
普段よく会うのはyasu (Acid Black Cherry)とかDAIGO (BREAKERZ)とか、NEWSの手越 (祐也)とかかな。ちょっと飲みたいと、とりあえず連絡してみる。今じゃ、みんな、人気者だからスケジュールが大変なんだろうけど、ほぼ来るよ(笑)地方にいない限り(笑)*2
一番好きなジャンルはロックでしょうね。最初はX JAPANだったんですよ。(・・・) “イイ子ちゃんロック”じゃなくて、ツーバスがドコドコ鳴ってるようなハードな感じが好きですね。Acid Black Cherry、VAMPS、L'Arc-en-Ciel。 *4
(仲良しの友達ってダレ?)
4th AL 「L -エル-」*8に収録。THE yasuといったメロディーライン。ただ単にてごちゃんにこのメロディーラインを歌ってほしい。それだけで私はいつ死んでも悔いはない。
唯一の全編英語詞曲*9。1st AL「BLACK LIST」に収録。ライブでは特効ドカドカなので、思いっきりかっこつけて歌って欲しい。
3rd AL「2012」に収録。てごちゃんには是非「君がいた夏」とか「キミ+ボク=Love」なんかのあのトーンで歌ってほしい。ライブでは観客が手拍子をするのが定番。ジャニーズでいうC&R曲みたいなもん(?)だと思っている。yasuが手拍子に合わせてタンバリン叩くのが激かわいいので、みなさん是非ご覧くださいよろしくお願いします
17th SG。1st SG「SPELL MAGIC」のアンサーソング的な曲。これもyasuお得意のJazzyなナンバー。PVがこれまた良い。てごにゃんは猫中毒では白猫ちゃんでしたが、この曲では黒猫ちゃんとなって存分ににゃんにゃんして頂きたいものです!!!余談だが私のカラオケ十八番でもある。
4th AL 「L -エル-」のリード曲。大丈夫、“だっかっせてぇ〜”*10って歌ってた君ならできるよ!てごちゃんの歌に合わせて折りたたむのが私の夢です。どうかいつか叶えたい。
3rd SG。私がてごちゃんに歌って欲しい曲不動の一位はこれ!!!私がABCにどっぷりはまるきっかけとなった曲でもある。このPVそのまま再現して欲しい。絶対世界観に合う。雨に打たれながら失恋の曲を歌う手越祐也……いい!小山くんにも似合いそうだなと思う。(※リンクはLIVE映像です、公式ChannelにPVがなかったので)
14th SG。2011年9月より5ヶ月連続で発売されたシングルの第4弾。ちょっとらびんゆを彷彿とさせる歌詞。このPVのyasuがまじで美人!!!!!美恋のバンビーナのボディコン衣装着たら再現できそう……“今から泣くから早く行って 嘘 行かないで”という歌詞がすごく好き。
- 9. I'm so happy
- 10. BLACK JACK
- 11. still
- 12. ヴァンパイア
- 13. ーRーTYPE「瞳の色」
- 14. Strange Voice
- 15. 赤い月
- 16. Heaven's Place
*3:応援とは音源や映像を購入したりライブに行ったりすることとする
*4:『NEWS ピアノ・コレクション』 インタビューページより
*5:『オリスタ』2012年3月19日号
*6:同上
*8:NEWS「White」とリリースがかぶってて目の敵にされた例のアルバムです
*9:その後2nd AL「Q.E.D」では、もともと日本語詞で発売されていた6th SG「ジグソー」を英語詞化して収録
*10:チャンカパーナ初回盤に収録の手越祐也ソロ曲「Addict」より。この曲、タイトルはVAMPSから、歌詞の内容はABC及びJanne Da Arcからインスピレーションを受けていると私は都合よく考えている
移りゆく世界の片隅で君に会えて嬉しい
当時小学6年生だった私が、気づけば23歳。もうお酒も飲めるし、まだ半人前だけどお仕事もしています。
高校受験、大学受験、就職活動。私が経験してきたライフイベントで、いつも寄り添ってくれたのは貴方でした。
特に就職活動。親元を離れて初めて直面した人生の転機に、貴方が寄り添ってくれたことがどんなに力になったか。人生で初めて歌を聴いて声をあげて泣いた*1のはこの時だった。後にも先にもこれっきりかもしれない。
新成人の誓いで、「有言実行」と書いたことを貴方は覚えていますか?今やこの言葉は貴方の代名詞になった。何時だって前向きで全力で、何事にも果敢に向かっていく貴方の姿は、私の道標になっています。
本当は強くなんかないのに、全ての矢面に立って、NEWSのエースと言う重責を背負う貴方を、心から誇りに思います。よくここまできたね。たまには私たちに寄りかかったっていいんだからね。3人にも頼ったっていいんだからね。
手越祐也くん、28歳のお誕生日おめでとう。本当はいつもみたいに長ったらしいブログを書こうと思ってたのに、先日のイッテQを見たら何にも言えなくなってしまいました。これまで貴方に、そしてNEWSについてきてよかった。これからもよろしくお願いします。
*1:テゴマス「きれいごと」
アイドルと(疑似)恋愛の話
とても興味深い記事を拝読した。実はこの手の記事をずっと下書きにしたためていて、でもうまくまとめられなくて悶々としていたのだ。完全にインスパイアされた記事になるが、ここからは下書きにずっと眠っていたものに大幅に加筆して、私なりにアイドルとファンの間の(疑似)恋愛について、見解を述べていこうと思う。初めに断っておきますが、結構ゲスいです。
ひとつ前の記事で、私は「気持ちが一過性のものではなく、時間とお金を蝕むようになったとき、便宜的に担当と呼ぶことに決めた」と述べた。ここで「便宜的」という言葉をあえて付加したのには理由がある。
私の小山くんに対する感情って、認めたくないけれど限りなく「リア恋【枠】」なんだと思う。23歳にもなっていい加減にしろと自分でも思うが、間違いなく、ただの「担当」の枠には収まりきらないものがある。*1それは言うまでもなく、現実世界の私の好きなタイプに、小山くんが限りなく合致しているからだ。もちろんそれが彼の真の姿とイコールではなく、アイドルを演じる上でのリップサービスが含まれると理解していても。
少し前に、ジャニーズウェブの連載での「浮気」問題が騒ぎになっていた。“(浮気してたグループは)かっこよかったですか?寂しさを紛らわせてくれましたか?”なんて論調だった。確かにちょっと棘のある言葉使いだったかもしれない。でも拗ねてる様子を素直に文章にして、まさしく(疑似)恋愛をしている!と思わせるために彼らはあえて書いているはずで、その思惑がストレートに伝わらないもどかしさはあっただろうな、と思う。人によって受け取り方も様々なんだな~とやけに感心したものだ。
4人になってからのNEWSって、他のどのグループよりも「ファンの疑似恋愛の対象であろう」と努めてきたところがあると思っている。私たちファンを彼らはある人は「恋人」と、またある人は「妻」だと言う。コンサートは「デート」だし、もし他のグループに目を向ければ、「浮気どころか不倫だ」と軽々と言ってのける。ジャニーズウェブでは「早く会いたいね」、「早くいちゃいちゃしようね」などと愛の言葉を否応なく囁かれる。
彼らがこういうスタンスである以上、ファンが彼らに対してある程度の本気度合で恋愛感情を抱くことは避けられないんじゃないだろうか。事務所全体である程度その「(疑似)恋愛」におんぶにだっこな商法をとっていることは否めないと思う。だからここでただの担当には収まり切らない「リア恋」と「リア恋枠」そしてその上を行く「本気愛」が登場するわけだ。あくまで私の見解だが、「本気愛」と「リア恋」、「リア恋枠」それぞれに共通するものとして、”彼らの隣にいる自分を思い描く”ということが一つ言えるのではないか。ただ、その本気度が異なっているだけなのだ。
「本気愛」とは字のごとく本気で愛しているという意味で、つまり現実世界での好きな人は彼らアイドルとイコールなのである。本気愛を自認する人々で副担を設けている人はあまり見たことがない。ちょっと若い感覚の言葉を使うなら、「同担拒否」というのはここのカテゴリーに属するものだと考えている。本気で好きなら同担を拒否したくなる気持ちもわからなくはない。だって私にもそういう時期があったもの。学年の女子の多くから好意を寄せられる○○くんがいたとして、もし親友も私も○○くんに片思いしていたとしたら、その友情にひびが入ることもあるだろう。同担拒否とは、きっとそういうことなのだ。
先述したが、「リア恋」と「リア恋枠」にも共通しているのが、彼らの横を歩くのはあくまで「自分」でありたいと願うことだ。彼らがドライブに行った、と言えば助手席に座っている自分を想像するし、お寿司を食べた、と言えばちょっとリッチなお寿司屋さんのカウンター席で一緒に食事する絵を思い描く。
でも、ぶっちゃけた話「リア恋」も「リア恋枠」も、実際に自分が彼らの横を歩く日が訪れないことを頭ではわかっている。少し脱線するが、私が東京に出て女子大生として4年間生きて分かったことは、こんなに人がいるのに、意外と世間は狭いということだった。私ですら彼らを意外と身近に感じたのだから、もっとそれを実感、体感している人は一定数いるだろう。でも、「リア恋」「リア恋枠」を設ける人たちはみんな、ファンと彼らの間には不透明な壁が存在していて、その壁はどんなことがあっても壊されないことを理解している。そして、自分からその壁を壊そうと努力することはないだろう。これが「本気愛」との違いではないだろうか。どんなに距離が縮まったって、所詮アイドルと一般人は違う世界に生きているのだ。
少し話がそれたが、じゃあ「リア恋」と「リア恋枠」との差は何かっていうと、「リア恋」は「担当」とイコールな人が多いように思う。現実世界でこんな人と付き合えたらなぁ……と思う人をそのまま担当にしているタイプ。でも、「本気愛」ではないから現実世界との区別はしっかりできている。かたや「リア恋枠」は担当の他に好きな人がいて、「リア恋【枠】」という自分の中での気持ちの置き所を作っているに過ぎないんだろう。担当とは少し違う、でもこの人は理想のタイプだから特別だなぁ、という感情に「リア恋枠」という名前をつけたのだ。もちろん現実世界との線引きは忘れない。
「本気愛」だって「リア恋」だって「リア恋枠」だって、彼らが誰か人のモノになるのは許せないはずだ。だって彼らの横を歩きたいのは自分自身なんだから。だから熱愛報道なんかが出ると一様に落ち込むし、引いては日常生活にだって影響を及ぼしかねない。そういう反応を傍目から見ると、全部一緒くたに見えてしまうかもしれない。けれど、きっとこの三者の間には相容れない差異が存在していて、ある日突然何らかの外因によって行き来が生まれることもあるのだろう。
かくいう私は「リア恋枠」に限りなく当てはまる人がいるにもかかわらず、その人をも「担当」の定義の範疇に無理矢理括っている。それはなんでか、というと、この「リア恋枠」という言葉を声高に主張するのに少し恥じらいがあるからだ。だって、もういい歳なのに、ファンサ厨でリア恋枠がいて、なんて、もう私の自意識がそんなの許さない。きっとこういう心境でいる人、少なからずいると思うんですがいかがですか?
ここからは完全に自己満なんだけど、具体的にNEWSを疑似恋愛の対象に当てはめて考えてみたい。
NEWSで不動の「リア恋枠」No. 1は小山慶一郎だろう。あんなに多方向から「結婚したい」って言われてる人、他に見たことない。確かに包容力があって、かっこよくて、綺麗好き*2で、かわいくて、サプライズなんかもちゃんとしてくれそうで、かわいくて……言うことない旦那さんになりそうだな、とは思う。
かたや「リア恋」が多いのは手越祐也にみえる。特に若年層に多いイメージ。彼は結構わかりやすいリップサービスを常日頃怠らないから、そういう意味では一番キャッチーな存在たりえるだろう。
そして「本気愛」が一番多そうなのが増田貴久。ある種の信仰めいたものがあの界隈にはある気がする。プライベートは決して明かさない、アイドルに徹したその姿勢も相まって、割ととっつきにくい一方で一度好きになったらどんどんのめり込んでしまいそうなタイプ。
加藤シゲアキはというと、正直「本気愛」「リア恋」「リア恋枠」どれもあまりしっくりこなかった。多分それは、彼が一人でなんでも出来てしまうために、あまり女性特有の庇護欲を擽られないことが大きいと思う。勝手な印象だが、彼を敬愛の眼差しで見ている人が多そうだ。
勝手に私の個人的な見立てで彼らを分類してしまった。彼ら自身はというと、結構そういう対象として見られることを喜んでいる節があるように見える。確か前に「なんか名前を変えられる小説*3みたいなのがあるんでしょ?面白いよね」というようなことを言っていた。アイドルだって一人の男の子なわけで、表現はどうあれ自分に対してまっすぐに向けられる好意は少なからず嬉しいものなのかもしれない。
本当に書きたかったことの半分くらいしか文章にできなかった…ちょっと婉曲して伝ってしまいそうなので一応最後に但し書きを。ここまでつらつらアイドルと(疑似)恋愛について述べてきたわけだけど、別に人様がアイドルへ向ける感情を否定するような意図は一切ないです。あくまでこんな風に考えてるやつもいる、ってことで、流し読み程度に読んでいただければと思います。
ジャニヲタ文芸部 第0回 「担当」
漸く時間が取れたので、こちらに参加させていただこうと思います。滑り込み!ずっと書いてみたかった「担降りブログ」のようなもの。でも私は「担降り」の経験がないので、「担“堕ち”」ブログ、いや、「担“増し”」ブログといったところになるでしょうか。
*****
担当が増えたあの時、私はまるで枝先に止まったトンボだった。
もし私が5年前の私と対峙することがあったなら、「“担当”が2人いる、しかも同じグループ内に」なんて言いだしたが最後、横っ面をパーンとはたかれて「信じらんない、私はそんな風な大人になったりしない」なんて捨て台詞を吐かれるだろう。それくらい当時の“担当”に対する人々の考え方は一夫一妻制的というか、“掛け持ち”はとかく公言するものではなかった記憶がある。“担当”を一人に絞らなければならないために“神”に昇格されるものもいれば、“副担”としてサブの位置づけに置かれるものもあった。それが今はどうだろう。いわゆるDDという概念が浸透して、今まで声高に叫ぶことが出来ず、人々が泣く泣く1人に絞っていた“担当”を複数持つことは“悪”ではなくなった。
先に私の中の“担当”の概念をはっきりさせたい。私にとって“担当”とは、「時間とお金を惜しみなく使える人」のことである。私は熱しやすく冷めやすいタイプで、“好き”の気持ちの大小は正直言って時期によって変動するものであるという認識なので、“担当イコール一番好きな人”と言い切ることは出来ない。その揺れ動く気持ちが一過性のものではなく、時間とお金を蝕むようになった時、その時は便宜的に“担当”と呼ぶことに決めた。
過去何度かこのブログ内でも述べてきたように、私は手越祐也という人を担当するようになって約12年になる。12年間のうち、最初の6年くらいは本当に盲目だった。いつか彼と付き合うことを夢見ていた時期だってある。彼がすることなすこと全部知りたかったし、いつだってそこには肯定の感情しかなかった。彼を否定するものは私が粛清する、くらいの気持ちでいた。でも、私が好きになった頃の彼がいなくなりつつあるという不安が大きくなっていった。
4人体制になってから初めて行ったコンサートで、私は今まで目もくれなかったはずの小山慶一郎という人に堕ちた。スタンド最前列で手越祐也のうちわを振っていた私の目の前に立った彼は、あろうことか私の肩へと手を伸ばし、私の目をじっと見据えて20秒ほど歌い続けた。そして去り際に、まるでトンボを捕まえんとするかのように人差し指をくるくると回し、私の視線をくぎ付けにしただけでなく、心まで全部攫っていった。「好きになるのに、1秒もいらない」というキャッチコピーがあるが、あの時私にはおよそ30秒もの猶予が与えられていた。こんなに大きくてわかりやすい釣り針を!?と戸惑ったことは否めない。それでも、釣られてみることにした。
しかしそれからおよそ1年半もの間、私は自分を偽り続けた。手越担であらねば、という義務感が苦しいほどに私を縛った。担当とは1人であるべきだ、と思い込んでいたからだ。明らかに熱量のベクトルが小山くんの方を向いていると気づいていながら、私はそんな自分の心に蓋をした。
同じグループ内で気になるメンバーが増えると、非常にのめり込みやすいものだと学んだ。CD・DVDの類は基本的に全て揃っているから新しく買い求める必要はない。雑誌(の切り抜き)だって結構なラインナップだし、過去のテレビ・ラジオ等もある程度はデータが残っている。なにより、グループのことを新たに学びなおす必要がない。普段日本中心の世界地図を見慣れた我々がヨーロッパ中心に描かれた世界地図に多少の違和感があるように、これまで手越祐也を中心に観ていたものを違った視点から観てみるのは、純粋に新鮮で面白かった。どんどん深みにはまる自覚はあった、それでも私は手越担であり続けたかった。
2015年3月21日、私はガイシホールにいた。「この名古屋3公演で降りるか降りないか決めよう」そう思って。でも、結論から言って無理だった。私にはどちらか一方を選択するなんてできなかった。
もし小山くんの手を取れば、私はこの12年を棒に振ることになる、という気持ちが一番大きかった。これはやっぱり義務感だろうか、今となっては別になんだっていいのだけど、とにかく、“手越祐也を担当していない自分”が想像もつかなくて、なんだか自分の体の一部がなくなってしまうような気さえした。羽をもがれたトンボはこんな気持ちなのかもしれない。そんな時に限って、何年かぶりに彼からファンサをもらったりするものだから、私は結局のところ手越祐也という人の呪縛から一生逃れられないのだと悟った。こんな幸せな呪縛、他にあるだろうか。
そして、私は自分に嘘をつくのをやめた。どっちも好きなのだ。だから、小山くんが好きだという気持ちも素直に大切にしてみようと思った。6月14日、東京ドームで初めて紫色の字で書かれたうちわを持つことにした。前の日に鏡の前でうちわを持ってシミュレーションをして、あまりに所在なさげな自分に驚いた。思った以上に手越担という肩書きは私のアイデンティティーと化していたらしい。それでも当日、私のうちわを見つけた小山くんは、まさに神対応ともいうべき反応を示してくれた。天にも昇る心地とはこのことを言うのだろう。
同じグループ内で担当を2人持つことが禁忌とされてきたのは、例えばコンサートのように、2人を同時に愛せない瞬間があることが問題なんだろう。どちらかを選ぶということは、どちらかを捨てるということだ。平等に愛を注げないなら、複数を愛す資格なんてないのかもしれない。私は小山くんのことは対異性に準じる目で、てごちゃんのことは母親のような気持ちで応援している。そういう風に好きのベクトルが異なっているのだから、と自分を正当化して、しばらくはこの”一妻多夫制”を続けさせてもらうつもりだ。
人間はカメレオンではないから、視線は一方にしか向けることが出来ない。コンサート中に2人を追いかけるのは結構大変だけれど、双眼鏡という大きな眼を装備した私は、あの時やっぱり魔法にかけられて、恋するトンボになったのだ。
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ジャニーズとインテリジェンスについての考察
先日放送されていた、「NEWSな2人」を観た。自担Gながら、ああいう切り口の番組をいただけるなんて、なかなかやるじゃないかと思う。夕方のニュース番組でキャスターを務める小山慶一郎と、既刊4冊の作家先生、加藤シゲアキ。ただの「アイドル」という肩書きだけじゃやっていけない世の中だ。キャスターと作家業、これだけでもアイドル+αの肩書きとしては十分だと思うけど、それに加えて(これはジャニーズに限らないが)大卒を前面に押し出す近頃の売り出し方って一体何を志向したものなんだろうか。