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言いたいだけ

映画「ピンクとグレー」を観ました(ネタバレあり)

 1月30日、漸く「ピンクとグレー」を観た。ネタバレ大好きで映画館に行く前には必ずレビューを覗く私が、今回、いろんな情報を自分からシャットアウトしていた。理由は二つあって、一つは、あれだけ宣伝されていた「#62分後ヤバい」を新鮮な気持ちで楽しんでみたかったということ。もう一つは、誰かのフィルターを通されて、誰かの解釈が自分の中に入る前にこの物語を楽しんでみたかったからだ。単に物語の展開だけつらつらと述べた文章があったら私は間違いなく読んだだろうけれど、ブログ等にしたためられるものは絶対にある程度の熱量を持っているはずなので、自分から見ないようにしていたというわけだ。これは舞台「フレンド」を観劇したときに体験したことだが、自分で観る前にものすごい熱量のある感想を目にしてしまったために、実際に観劇する段になって、全てがなんとなく白けて感じられた。個々がどんな感想を持とうと自由なはずなのだが、その時は原因の予想がついていた以上、演者の皆さんをはじめ関係各所に失礼な態度だったのではないかと後々思えた。今回の映画はそうはしたくなかったので、ネタバレを避けるという人生で初めての行動に出た。

 

 さて、感想(考察ではないですよ)を書いていきたいのだが、今回は一切他の文献等を引用せず、ただ映画を見て私が感じたことだけ述べようと思う。先に言っておきますが、私は映画公開前に2度小説を読んだだけで、パンフレットもろくに読まず、プロモーションで出演した雑誌のインタビュー記事等も立ち読み程度にしか把握しておりません。よって、何か齟齬が発生する可能性は十分にあります。その辺りは一個人の感想として流していただければと思います。それでは追記から。書き終えて思ったんだけど、ただ自分の記憶を引き出してメモしただけの記事になってしまった…

 

 まず最初に思ったこと。中島裕翔、かっこいいな!!顔が整いすぎている。制服姿のまぶしいこと。ゆうとりん確かに白木蓮吾にぴったりなキャスティングかもな~(はーと)なんて浅薄な気持ちでスクリーンを観ていた。62分までは。

 

 結論から言えば、ここまで我々が見てきた62分間の映像は、作中でりばちゃんが書いた暴露本『ピンクとグレー』が映画化された映像だった。加藤シゲアキが書いた小説『ピンクとグレー』の映画を観に来た我々が何の疑いもなく中島裕翔=ごっち、菅田将暉=りばちゃんだと思って観ていた映像は劇中劇で、つまり、りばちゃんが原作の『ピンクとグレー』を行定監督が映像化、白木蓮吾を演じるりばちゃん=中島裕翔、りばちゃんを演じる成瀬=菅田将暉というメタ的な映像だった。これこそが「#62分後ヤバい」の真相だったわけだ。

 

 ごっちの自殺により一夜にして時の人となったりばちゃんは、芸能界の荒波にどんどん飲み込まれて、揉まれて、いつしか自分を失い始めてしまう。りばちゃんの脳裏にはいつだってごっちがいて、良くも悪くもごっちによって行動を阻まれてしまう。ごっちが生きていようがいまいが、りばちゃんがこなす仕事はごっち関連のものばかりだし、りばちゃんが経験することは全部、ごっちが先に経験してきたことだ。

 

zannennen.hatenablog.com

 

 以前、小説「ピンクとグレー」を読んだ時に書いた上記の記事で、私は「ごっちとりばちゃんの自意識が共存することはできなかった(=そのためにごっちは自殺した)」と述べた。2つの自意識が同時に存在することは出来なくて、片方が滅び、片方が生き残ることでその意識は1つになったと感じたのだ。その後、りばちゃんの中にまるでフェニックスのように蘇ったごっちは、自らの死のシーンを演じるりばちゃんという自意識の容れ物を動かして、再び死を選ぶのだ、と。

 

 でも、映画では、最終的に2人は決別する。ごっちと比べられるのが嫌で、どうしてもごっちに比肩する位置を自分で掴み取りたかったりばちゃん。しかし自分を置いてどんどん先に進む親友に追いつけなかったばかりか、その親友は死んで、もはや自分の手の届かないところに行ってしまった。「白木蓮吾」という存在がある種神格化され、人々が語り継ぎ懐かしむレジェンドと化してしまった以上、どんなに努力したってりばちゃんはごっちに追いつくことが出来ない。

 

 自分を取り巻く環境の至る所に「白木蓮吾」の幻影をみるりばちゃんが、芸能界の荒波に耐えられなかったのも無理はないと思う。ごっちのことは全て知っていると思っていたはずなのに、りばちゃんは「白木蓮吾」のことは何一つ知らないのだから。知らないのに、りばちゃんがこなす仕事の全てに「白木蓮吾」の影がある。人気の絶頂にありながら死を選んだ理由の想像もつかないというのに。そうしてりばちゃんは「白木蓮吾」を知ろうとする。

 

 ごっちが生前住んでいたマンションで自殺未遂を起こしたりばちゃんは、親友の死の理由を突如現れた「白木蓮吾」の幻影から聞かされることになる。「白木蓮吾」もといごっちは、りばちゃんに向かって粛々と語りかける。ごっちのネクタイのピンク色がひどく印象に残るシーンだ。このシーンで一番印象に残ったのが、故人であるはずのごっちに色がついていて、自殺が未遂に終わり、生きているはずのりばちゃんがモノクロで描かれていることだった。普通、逆じゃないんだろうか。

 

 ここからは私の解釈だが、たぶん、あの時のりばちゃんはもはや「死んでいた」も同然だったんだろう。暴行事件を起こしてしまい、せっかくごっち自ら死を以って有名にしてくれたのに、そのチャンスを生かし切ることが出来なかった。しかも「白木蓮吾」の一番身近にいた人間として、知らないに等しい「白木蓮吾」について話すことを余儀なくされる。サリーとの関係も険悪だ。あそこで首をつろうと思った時点で、りばちゃんの自意識は死んでいたも同然だった。だから、まるで遺影のような、モノクロの世界で生きていたのだ。

 

 りばちゃんが「白木蓮吾」を理解する必要などないのだ、と気づいたとき、つまり、りばちゃんが「ごっちの全て」を理解したと同時に、今までモノクロだったりばちゃんの世界に色が戻ってくる。りばちゃんの自意識を蘇らせたのはごっちだった。原作では、死んだ自分の魂をりばちゃんに転生させるフェニックスだった(と私は解釈した)ごっちは、映画では息絶え絶えのりばちゃんの自意識にもう一度命を吹き込み、りばちゃんという容れ物にしっかりと納めなおしたのだ。2つの自意識は確かに共存できなかった。片方が滅んだことで、もう一方も滅びかけた。でも、そこで決別を選ぶことで、もう片方は生きながらえることが出来たのだ。映画では、そう描かれているように感じた。