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言いたいだけ

『閃光スクランブル』とキリスト教

 

 

閃光スクランブル

閃光スクランブル

 

 

今更ながら加藤シゲアキ先生の著作を読んで感想を述べるシリーズ(勝手に命名)も3回目。今回取り上げる2作目の『閃光スクランブル』は、実家へ帰省する道中の機内で読了した。羽田から1時間5分のフライトだったが、10分ほど残して読み終わったように思う。ちなみにうちのてごちゃんはもう読み終わったのかしら。

 

例によって一応たたんでおきます。今回割とぼろくそ書いてるのでご注意ください。あと、ちょっと宗教の話をしています。こちらも苦手な方はご自分で回避を。聖書については大学時代にレポート書くときに少しかじった程度の知識なので(そんなんで書くなって話ですが)、もし間違い等ありましたら優しくご教授くださいorzそれでは追記から。

 

 一言で言うなら、うーん、って感じだった。特に前半。個人的には、荒削りだったけどピングレの方がずっと好きだった。今回も伏線回収する辺りからはぐっと惹きつけられたのに何だろう、シゲちゃんはそういう文章の組み立て方をしてるんだろうか。だったらそれって損だ。本を最後まで(読みたくても)読めない人って少なくないと思うんだけど、始めの方で投げ出されちゃったら、最後はきれいに回収するのにもったいないな、と感じる。

  
私がうーん、と感じたのは、前半がダレてることとは関係なく、多分あまりにあっさりと著者自身を思わせる世界を生きる主人公が描かれていて、描写が妙にリアルだからだ。もちろんこんな文章を書けるのは彼しかいないだろうし、そこを面白いと思う人もいるだろう。でも私はそんな思わせぶりな文章が苦手だった。アイドルを、そしてアイドルのリアルを描くことにもっと抵抗を見せて欲しかった。この本を書いているのはあくまで作家の加藤シゲアキなのに、どこかで仮面をかぶって、アイドル然としていて欲しかったのかもしれない。
 
 
さて。今回書きたかったことに移る。この『閃光スクランブル』を読んで、どことなくキリスト教を思わせるモチーフが多いように感じた。実は以前に『傘をもたない蟻たちは』を読んだときにもちょっとそんな印象を受けていたんだけど、この作品ではより強く出ている感じがする。(※ここから聖書を実際に引用したりします。ただの英文学科卒の戯言だと思って読んでいただければ)

 
まずは、アイドルグループMORSEから人気ナンバーワンのミズミンが卒業し、新メンバーとして勝浦百合が加入する場面。この場面では「花」のモチーフが頻出していて、さらに新メンバーの名前が「百合」。これは「百合の花」のイメージを読者に想起させたかったんだろうと解釈した。清廉潔白、可憐な印象の植物で、昔から美人を形容することわざとして“立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花”なんて言われたりするから、きっとこの新メンバーはそんな花のようなかわいらしい女性なんだろう、と読者は捉えるはずだ。
 
ここで作者が「百合」の名を与えたのは、恐らくこの新メンバーの持つ清廉性を際立たせたかったんじゃないかと思う。キリスト教において白いユリの花は“マドンナ・リリー”と呼ばれ、純潔の象徴と言われている。
 
純潔(英: chastity)とは、精神的な節制を保つこと。とりわけ男女関係において結婚によって配偶者になった者以外との性的関係が無い状態を指す。*1
 
つまり、スキャンダルの渦中にいたミズミンと不倫に溺れるアキは上記の純潔の概念には当てはまらない。この2人と勝浦百合が決定的に違うのは、その処女性の有無だ。作者が描きこんでいない勝浦百合のバックグラウンドがあるのかもしれないけど、明らかにミズミンとアキの対極の存在として、彼女の登場はセンセーショナルに描かれている。
 
現実のアイドルを取り巻く環境でも、こういう処女性とか純朴さっていうのはかなり重視されている。彼女たちはいつだって偶像崇拝の対象だ。それはなにも女性アイドルに限った問題ではなくて、とにかく、「アイドル」と言うものは特定の誰かの所有物であってはならない。向こうからどんなにこちら側に歩み寄り、手を差し伸べたとしても、そこには芸能人と一般人と言う越えられない壁が存在する。つまり、「アイドル」というものは常にパブリックな存在で、「手の届かない人」「実際に恋い焦がれてはいけない人」であり、ある種不可侵なものとして神格化される。著者も身を置く「アイドル」とそれを支えるファンの関係は、キリスト教でいうキリストと信者の関係に酷似している。
 

次に取り上げたいのが、血を流す表現。筆者が登場人物に流させる血が、私は以前から気になっていた。例えば、「にべもなく、よるべもなく」のこの描写。

ふと自分の手が視界に入る。右手の指は血で赤く染まっていて、動かすたびに乾いた部分がぽろぽろと剝がれた。慌ててパンツの中を見る。股間のまわりも同じようにあかくなっていた。*2

右手を月にかざす。赤津の血はまだ僕にこびりついていた。(...) 指をしゃぶり、手のひらや甲を舐めてきれいにしてもう一度右手をかざす。手は元通りに見えたけれど、でも本当にきれいになったかというと実際はそうでもなく、僕の唾液で濡れた手は、さっきにも増して汚いように感じた。*3

旧約聖書の一書、レビ記では、様々な規定が定められている。この中にある清浄と不浄の規定(11章~16章)のうち15章を少し引用する。 
15:19 また女に流出があって、その身の流出がもし血であるならば、その女は七日のあいだ不浄である。すべてその女に触れる者は夕まで汚れるであろう。
15:24 男がもし、その女と寝て、その不浄を身にうけるならば、彼は七日のあいだ汚れるであろう。また彼の寝た床はすべて汚れるであろう。*4

この15章でいう「流出」と赤津の破瓜による出血は言わずもがな異なったものなんだけど、生理的な血液で汚れるという表現はおそらくこの辺の影響を受けてるんではないだろうか。そもそもなぜ血液が不浄なものと考えられるかということで、次にヘブルを参照したい。

9:22 こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。*5

 

今まで血によって汚れる話してたくせに、なんでここで血によって清められるんじゃい!と座布団が飛んできそうだ。確かに一見パラドックスなんだけど、「血を流すことなしには、罪のゆるしはありえない」ということは、罪を犯した人が赦されるためには血を流さなければならないということとイコールだ。赦されるために体から血が流れ出すと同時に、その人は清められていく。つまり、ここでいう血液は罪の象徴で、汚れであり、それが人の身体から流れ出すのである。だからその血液に触れるモノ(者・物)は汚れるのだ。
 
こういう観点で『閃光スクランブル』の以下の部分を見ていく。
視線の先を見ると、亜希子が自分の腕にバタフライナイフを突き立てていた。先ほどまで匠の腕に刺さっていたものだ。(...)
伊藤亜希子は目を瞑ったまま、腕から大量に血を出して―それは巧と同じ箇所だった―倒れていた。*6
先述した流血の概念に照らせば、この二人は腕から出血することによって各々の罪から赦されたことになる。亜希子はアイドルという立場にも関わらず妻子ある男性と関係を持った罪から、巧は他人の人生を狂わせるゴシップを撮るという罪から。ただ、同じ場所から血を流すことになんの意味があるのかはよくわからなかった。2人の共通項をより強調する目的があったのかもしれない。
 
巧の背中に彫られるタトゥーだってそうだ。このタトゥーを彫るという行為は、明らかに懺悔であると同時に、身体を傷つけ、血を流すことによる贖罪でもある。彼はゴシップ写真を撮ることを生業としながらも、自分の写真によって他人の人生が少なからず左右されることに罪悪感を感じていた。ミズミンを撮った時点で背中に彫られた葉は48枚。つまり、亜希子を撮った暁に、彼の背中には49枚の葉が彫られるはずだった。キリスト教では7は完全数である(数学的完全数ではない)。これは、キリストが6日間で天地を創造し、7日目に休んだことに由来する。こじつけかもしれないが、7×7=49枚目の葉が亜希子であったということに宿命を感じずにはいられない。*7
 
 
改めて作者のルーツを辿ると、自ずと答えは出てくる。そういえば、彼って中学からずっと青学なんだった。キリスト教系の大学では、「キリ教」と呼ばれる(と友人に聞いた)授業が必修らしい。中高時代からそういう土壌で育ってきた彼なら、きっと聖書に触れる機会は少なからずあったんだろう。だから、そういう表現が多いのかもしれない。
 

久しぶりに大学生の頃のレポート的な物を書いて楽しかったー!という何ともいえない感想を置いて逃げます。ほんと間違いだらけだろうから誰か添削して…

*1:純潔 - Wikipedia

*2:『傘をもたない蟻たちは』p.239

*3:『傘をもたない蟻たちは』p.241

*4:レビ記(口語訳) - Wikisource

*5:ヘブル人への手紙(口語訳) - Wikisource

*6:閃光スクランブル』pp.161-162

*7:聖書だと掛け算するというよりは“7の70倍まで罪を赦しなさい”って言ったりするんだけど、まあその辺は一個人の解釈として目をつぶっていただけるとありがたい