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舞台「グレート・ネイチャー」雑記【ネタバレあり】

久々の小山慶一郎主演舞台、「グレート・ネイチャー」。4回お邪魔させていただきました。そして本日は東京千秋楽ですね〜!いやはや、小山くんが納得のいく舞台になってたらいいなぁという気持ちでいっぱい。
 
 
正直あらすじを書くのも難しいようなお話で、最後まで観てもはて?という感想しかないのですが、メモがてら考察やら萌えポイントやらつらつらと書いていきます。まだ大阪公演残ってますが、早く書かないと私の記憶が薄れちゃうので思いっきりネタバレしてます。自衛よろしくお願いします。それでは追記から。

 

 
 
話をあえて要約するなら、School of Nature(通称SON)に赴任してきた教師・篠崎と、SONの教師である真田と長谷川、そしてこれまでどの学校でも持て余されてきた問題児・マックスが繰り広げる群像劇とでも言うところ。劇は、SONでの彼らの学校生活(?)と、10年後、SONがなくなってしまったという世界での篠崎を交互に回転セットで映し出す形で進んでいく。
 
 
この舞台のメッセージ性とかを語る前に、ちょっと語らせていただきたいんですけど、篠崎先生がいちいちかっこかわいいんです!反則です!がっつり役作りする必要がない役柄で、しかもある程度の分量アドリブが入ってくるので、素の小山慶一郎を存分に堪能できる作品でした。スタイル良すぎて出てきた瞬間はっ……!とするし、それなのに舞台上でも天然だから困る。かわいいが過ぎる。後述しますが、毎度毎度何かしらやらかしてくれるので、そういう面でもファン心理をくすぐる作品でした。そりゃリピーターも増えて当日券あんなことになるわ。
 
 

さて、それでは舞台の伝えたかったことは何か?という分析をしていきたい。冒頭で、篠崎は赴任先のSONを探し彷徨い、そこで教師を務めるという真田と長谷川、生徒であるマックスに出会う。しかし、そこには校舎はない。というか、何もない。授業の内容も極めて意味不明で、水も何もないところに川があると想定して泳いだり、柿の種を植えたり、お腹が空いたからといって地面を吸い上げる。*1。果たして、校舎もなく、授業の内容もわけがわからないこの学校は学校と呼ぶことができるのか?というはてなマークが篠崎と観客の頭上に並ぶことになる。


 
非常に哲学的だと思った。今当たり前のように受け入れている「学校」という概念は正しいものなんだろうか。決まった時間に登校して、一週間のカリキュラムが決まっていて、出来不出来や授業態度によって絶対/相対評価を受ける。これが今我々が当たり前のように想起する「学校」の姿だ。「学校とはなんですか?」と問われたら、100人中100人がこれに準じた回答をするだろう。
 
 
でも、SONではそうじゃない。自分のもつ先入観や常識は全部投げ捨てて、その時々を、「今」を全力で生きることを半ば強制される。変な拘りや体面なんかは一切気にする必要はなくて、全身で自然を感じ、受け入れ、学ぶことが求められる。ここでは先生と生徒という関係性は、母なる地球と、その子供たる人間たちという関係性に上書きされる。通称である「SON」はここから意図して付けられたものだと解釈した。みんな地球の「SON」なのだ。
 

「人はなんで死ぬのか?」という問いがあった。この質問に、「寿命だから」って答えるのは、答えになってるようで答えになってない。病気で死ぬ、とか、事故で死ぬ、とか、そんなのは死因であって、本質的な「どうして人間は死を迎えなければならないのか」「じゃあなぜ人間には寿命があるのか」という質問の答えにはなっていない。たぶん、生死の境っていうのは、昔はもっと明瞭なものだった。でも私たちは、医療行為で延命をし、その境を曖昧に、不確かにする。地球上で、与えられた命の時間を自由に可変できるのは人間だけだ。篠崎が初めに乗ってきて以来、SON行きのバスが来ないっていうのは、きっと人生ってのは一方通行で、片道切符しかないという比喩だ。人は生まれたら死ぬしかないってことなんだろう。劇中で真田先生がその生涯を終えようとしているときも、確か「僕たちはみんな生まれた瞬間から死にかけてる」みたいな台詞があった。私たちは今この瞬間も死にかけている。だからもっと日々を無為に過ごさずに、大事にしようってことなんだろう。これは劇中の言葉から導いた一つの例だけど、もっとナチュラルに、ありのままに、原始的に、ワイルドに生きようぜ!っていうメッセージは少なからず込められていたように思う。
 
 
永久欠番の下りはよくわからなかったんだけど、いろいろ検索してたら見つけた中島みゆきの曲は結構劇の世界観に当てはまってるのかな、と思った。SONに行き着く人たちって、マックスを始めきっとみんな俗世間でうまく生きられなかった人なんだと思う。真田先生と長谷川先生のバックグラウンドは明かされていないから安易に言い切ることはできないけど、少なくとも自分の受け持つ体育の時間を生徒たちにボイコットされた経験を持つ篠崎はそうだ。自分がいなくなったって、他の人が代わりにその場所を埋めてしまうような、そんな生き方しかしてこなかった人。そんな風に社会から疎外された人にも、今ここで生きているというだけで、地球はちゃんと場所を与えてくれる。そういう意味での「自然に生きる」ってこともあるのかもしれない。社会によって与えられた役割や肩書きに担保された生き方をするんじゃなくて、地球を全身で感じて生活する。うーん、結局同じ結論に行き着くのかな。
 

 

カーテンコールで、小山くんは(私が観劇した回では)毎回「自然に生きることの意味を考えて欲しい」と言った。自然に生きることを改めて考えたとき、それは自然に生きていることになるんだろうか、と思った。考えて生きてしまったら、そこには人間の意思が入り込んでしまう。地球に生かされている通りの、ありのままの生き方はその時点でできなくなってしまうんじゃないだろうか。うーん、哲学的スパイラルに入り込んでしまうからこの話はやめる。

 

 
もう無理やり〆る。繰り返しになりますが、要は、後付けされた決まりや概念や利便性に縛られずに、みんなもっとフリーに生きようぜ!っていうメッセージが込められた、非常に哲学的な作品だったと思う。改めて、小山くん東京公演お疲れ様でした!おととい個人的千秋楽を迎えてから、絶賛篠崎先生ロスに苦しんでいるところ。小山くんを(も)担当にした今年始め、まさかこんなに早く舞台をやってくれるなんて思わなくて、なんか今もう感無量です!!!!!今日は我らがてごちゃんが観劇していたようですね…?大阪公演に私は足を運ぶことは出来ないけれど、なんにせよ、これは初日からずっと言ってることですが、久々の舞台が最後まで小山くんの納得のいくものでありますように。
 
 
ここからは超個人的備忘録。
14日、1階I列センター。結構目線が合う。黒板にチョークを叩きつける時に思いっきり指をぶつけてて可愛い。黒板はevery.お泊りセットはボディーソープとボディークリーム、かばんはロフトで750円。長谷川先生の問題は失念
17日、1階E列センター。結構近い。席がちょっと低いので目は合わない。チョークをあらぬ方向に飛ばす。黒板問題でパーでチョキに勝つ(じゃんけん)という天然発言あり。黒板はNEWS。かばんは伊勢丹2800円、中身はシャンプー・リンス(エッセンシャル)。
24日、1階N列上手。ステージ横のバルコっぽいとこ。近い時は本当に近い。最初近すぎてみんな息を飲んでたくらい。ここ狙いで買うのもあり。バタフラーイ!の時の顔近くで見れて可愛すぎて死ぬかと思った。黒板はevery.かばんはヴィレバン1000円ポッキリ、中身はワックスとヘアスプレー。Mステ後に別仕事・NEWSの仕事も始まってる発言あり
27日夜、私的千秋楽。3階A列上手。今回初めてのバードウォッチング。ちょっと髪切った?出てきた瞬間ほっぺをぷくっとさせてて悶え死にそうになった。真田先生がカミカミで笑ってるの可愛い。黒板に爪キーってする(しかも2回。黒板でヤー!ヤー!ってぐちゃぐちゃするときと最後〆にSONって書くとき)。問題はトマト犬+犬。黒板はevery,でお泊りグッズ1位化粧水、2位乳液。かばんはビレバン1200円?うろ覚え。汗かいててロメオの時みたいになっててかっこいい。
記念館の背景の写真タイトル「篠崎先生、赴任!」「極悪マックス」「篠崎先生VSマックス」「篠崎先生の仲間入り」「柿の種を植える」
歌の歌詞をご存知の方がいらっしゃいましたらご一報くださいm(__)m

*1:後述するように、人間は母なる地球の子供であるとすれば、これは疑似的に母乳を飲んでいるのと同じことである