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『Burn. -バーン-』を読んで

 

Burn.‐バーン‐ (単行本)

Burn.‐バーン‐ (単行本)

 

  加藤シゲアキ先生の著作を読んで感想を述べるシリーズの4回目は、『Burn. -バーン-』(以下『Burn.』)について。今回も実家へ戻る飛行機の機内で読了した。それにしても私はシゲちゃんの本を飛行機で読みがちである。ものすごいとりとめのない文章になってしまってちょっと恥ずかしい。追記から。

 

 『ピンクとグレー』を思わせる、過去と現在を行き来して物語が展開していくこの作品。すごく読みやすかった。途中もうちょっと説明があった方がいいと感じる場面は何度かあったが、全体にわかりやすかったように思う。読後感としては、「渋谷サーガ」3作品のなかで個人的には一番好きだった。

 

 簡単にあらすじを述べる。新進気鋭の演出家として活躍するレイジは、演劇のアカデミー賞と言われるウィッカー賞を授賞、晴れて“ウィッカーマン”の仲間入りを果たす。その受賞式で、レイジは子役時代に共演していたという世々子と再会する。しかしレイジは、その当時の記憶だけがポッカリと抜け落ちてしまっていた。新作の舞台の準備に行き詰ったレイジは、当時の記憶を徐々に取り戻していこうとするが―。こんな感じだろうか。

 

  • 「レイジ」という名前 

 まず私が注目したのが、主人公の名前「レイジ」だった。恐らく他にも指摘している方がいらっしゃることと思うが、「レイジ」という名前から英単語の“rage”を想起することは難くない。

1 激怒,憤激,憤怒;(…に対する)激しい怒り(at,against,over...);発作的激怒,怒りの発作[激発].

2 (風・波・火勢・病気などの)激しさ,大荒れ,猛烈さ,猛威;嵐,暴風

3 (感情・欲望・空腹などの)激しさ,強烈さ

4 強い欲望,渇望;(…を求めての)熱望;欲情,色情(for...)

5 熱心,熱意,熱情;感興,霊感

6 (the rage) 非常に人気のあるもの;売れっ子

7(古) 狂気.

8(俗) らんちき騒ぎ,浮かれパーティー,ダンスパーティー.

all the rage 大流行で,大はやりで

出典:ランダムハウス英和辞典

 

  物語を読み進めると、この“rage”という単語のもつ意味が、徐々に主人公の「レイジ」と重なっていくのがよくわかる。全てを達観したような子供で、常に感情を押し殺していた売れっ子子役のレイジは、ホームレスの徳さんとドラァグ・クィーンのローズとの出会いによって、ようやく自らに与えられた名前の通り「レイジ(rage)」へと変貌を遂げていく。それまでは感情を押し殺していた彼は、求められる演技と自分の理想とする演技との間に差異があったとき、これまでにない熱意をもって監督に意見する。監督に対しぶちまけたその思いが叶わなかったとき、再び感情の門戸を閉じるかに見えたレイジは、母親の小百合に対し、その憤怒の矛先を向けるのである。そして、徳さんの死後上級生のいじめっ子に徳さんやローズとのかかわりを馬鹿にされたレイジは激しい怒りを覚え、それを全身全霊でぶつけるのだ。この時彼は「身体に亀裂が入ったみたいに、感情が零れていく」「どばどばと溢れる感情は歯止めが利かず、喋れば喋るほど亀裂は大きく広がっていった」*1とまで述べている。物語の冒頭の激しさや熱さとは無縁だったレイジを思えば、彼がいかに大きな変化を遂げたかわかるはずだ。

 もちろんこの物語は、与えられた世界の中でしか生きてこなかった世間知らずの少年レイジが、一風変わった人々と出会い、交流を持つことによって新たな扉を開き自我を芽生えさせていくという、彼の成長物語として捉えることもできるだろう。しかし、他人の顔色ばかり窺って、自らの感情を心に秘めていたかつてのレイジは、果たして本当のレイジだったと言えるだろうか。ずっと抑圧されてきた本来の「レイジ(rage)」が爆発(Burn)し、真の「レイジ」が表面に顔を出す過程が描かれた小説と捉えることは出来ないだろうか。

 少々脱線するが、例えば安達秀夫は名前の持つ恣意性についてこのように述べる。

名づけること、あるいは命名が、相手に対する一種の権力の行使であることはよく知られている。たとえばアダムが、目の毎に連れてこられた動物たちすべてに「名前」をつけているのも、そうした動物たちに対する人間の「支配権」もしくは「統治権」を示すものだった(「創世記」1:28)。*2

  物語における命名は、基本的に作者が行うものだ。作者の手によって、登場人物の誰かが「(名付け)親」としての役割を与えられ、他の人物へ名前を授ける場合もあるだろう。*3『Burn.』ではレイジの名前の由来や名付ける過程は特に述べられていないから、作者である加藤シゲアキが、レイジに「レイジ」という名前を授けたことになる。

 名は体を表すとはよく言ったものだが、レイジが「レイジ」という名前を手にしたとき、その瞬間からレイジは「レイジ」として生きていくことを余儀なくされてしまう。*4どんなに始めはレイジらしくなくても、生きていくうちにレイジらしさを身に纏い、レイジとして立派に成長していくことを求められるのである。「レイジ」とはそんな抑鬱した感情を爆発させることで、人間らしく成長して欲しいという作者の願いが込められた名前だったのかもしれない。もちろん、この辺りは作者に投影して読んだ方もいらっしゃることだろうと思う。

 

  • 「火」「炎」の描写

 続いては「火」や「炎」の描写について。タイトルである『Burn.』にも通ずるこの描写だが、少々しつこいほどに、執拗に繰り返される印象を受ける。

  私が「火」と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、ソローの『ウォールデン 森の生活』*5だった。この物語をすっっっごいアバウトに要約すると、文明人であるソローが、森の中にあるウォールデン池の湖畔の小屋で二年間自給自足の生活をした際の記録なんですけど、『森の生活』冒頭で、ソローは「熱」についての独自の見解を展開し、人間が食べることと、燃料を燃やして暖をとることを「熱」を保つものとして同等と位置付ける。

  この『森の生活』の中で、ソローは「熱」に対する人々の受容の違いについて、ダーウィンの言葉を引き合いに出してこう述べる。

彼の一行は十分に着物を着て火のそばに坐りこんでいてちっともあったかすぎるということはないのに、それらの裸の野蛮人はもっと火から遠くはなれているにもかかわらず、「そんなにあぶられるのでたらたら汗を流している」のを見て、自分は大いにおどろいた、と。同様に、ニュー・ホランド人は、ヨーロッパ人が着物を着てふるえているのに裸でいてちっとも困らないそうである。これらの野蛮人の頑丈さと文明人の知性とを兼ねそなえることは不可能なことだろうか?*6

 

 ここで述べられているのは、典型的な文明(=都会、先進国、裕福)VS野蛮(=田舎、途上国、貧困)の構図である。「熱」を保つということに関しては全ての人類に共通することなのに、文明人はしばしば富を持ち学もある自分たちの方が優秀であると思い込む。しかし、貧しさゆえに教育を受ける機会がなかったことと、持って生まれた賢さは天秤にかけることができない。例えばディケンズの『オリバー・ツイスト』は、もともと高貴な身分の生まれの者がどんなに落ちぶれても、最終的に元の身分に回帰すれば幸せに暮らすことが出来るという物語だし、バーナード・ショーの『ピグマリオン』のように、いやしい身分の者でも努力すればそれ相応の階級のように振る舞うことが出来るという物語だってある。ソロー自身、出稼ぎに来ている木こりについて「彼は、人生の最下層にも、いかほど常住に卑賤で無学であろうとも、常に独自の見解をもち、あるいは全然わかったような顔つきをしない―暗く泥深いかもしれないが、あだかもウォールデン池がそうであると思われているとおり、底知れない天才的人物が存在するかもしれないことを暗示していた*7」と述べている。

 そろそろこいつ何の話してんの?って思われそうだし、大学3年の時に書いたレポートから内容を持ってきてるのがバレそうなので話を戻す。なんでここまで一見無関係な話をつらつらしてきたかっていうと、この文明VS野蛮の構図って、レイジと徳さん(そしてローズも?)の関係と一緒なんじゃないかと思ったからだ。

 レイジは確かに孤独だった。家庭にも学校にも職場にも自分を本当に理解してくれる人なんていなくて、いつも周りが求める子供らしさを演じているような子供だった。でも見方をかえると、離婚してもなおレイジを育て、彼の仕事のために奔走してくれる母親がいる。自分で稼いだ富だってある。みんなが羨むような芸能界の人々と交流を持つことだってできる。レイジは間違いなく成功者の部類に入るはずだ。

 一方徳さんは、かつて経営していたバーが火災になって以降ホームレスとなった。出火原因は煙草。これは私の推測だが、その火事で亡くなったという「くぜ ちよこ」という歌手は、徳さんの最愛の人であったんだろう。そんな徳さんが渋谷再開発浄化作戦への抗議の焼身自殺を実行する。ホームレスでありながら頭の回転は速く、物知りで、マジックだって達者だ。間違いなく優秀な人間であったはずの徳さんだが、ホームレスである以上彼は否応なく野蛮人に分類される。

 確かに成功者であったレイジだが、幸せではなかった。お金があっても、心は貧しい子供時代だった。対して徳さんは、確かにその日の暮らしに困るようなホームレスであったかもしれないが、心は豊かで、いつも楽しそうにみえた。物理的な貧困と、心理的な貧困は反比例する、というのがソローが『森の生活』で述べたことであり、これは作者が『Burn.』で述べたかったことの一つでもあると私は考えている。

 

 私には、徳さんはとにかく温かい人にみえた。私の解釈だが、ヘビースモーカーだったのは、恐らく火災で亡くなった「くぜ ちよこ」さんを忘れないためだろうと思う。そして、抗議の手段に焼身自殺を選んだのも。彼はきっと自らの身体に火を放つ機会をずっと待っていたんじゃないのかなぁとさえ感じてしまう。それほどまでに「火」のイメージが付きまとう人だった。

 

 『ピンクとグレー』はごっちとりばちゃんの物語であると同時に、主人公河鳥大が執筆した、自殺した幼馴染白木蓮吾についての暴露小説(作中では映像化され、河鳥が白木役として主演を務める)のタイトルである。『Burn.』も同様で、この小説の表題であると同時に、作中レイジが脚本を書き上げ、主演を務める舞台のタイトルでもある。なぜ彼は『Burn.』というタイトルを付けたのだろう。私は考えてもそれらしい理由付けが出来なかったので、誰か考察してみてほしいなぁと思う(他力本願)

 

 作中に出てくるレイジ・アゲインスト・マシーンの「ゲリラ・ラジオ」。少し調べてみたのだが、これは3枚目のアルバム「バトル・オブ・ロサンゼルス」に収録されているようだ。その3曲目の「Calm Like A Bomb」と、5曲目の「Sleep Now In The Fire」がなんとなくこの小説にリンクしている気がした。ずっと爆発前の爆弾のように静かだった幼少期のレイジに火を点けた徳さんは、今や火の中で静かに眠っている。

*1:『Burn.』p.219

*2:安達秀夫(1997)「ダーバヴィル家のテスとヤヌスの神話(1)」、『立正大学文学部研究紀要』13:1-42.

*3:例えばハリー・ポッターシリーズにおいて、"ハリー"の名付け親はシリウス・ブラックであると明かされる場面がある。harryという単語には"慢性的に悩ませる"という意味があるが、ハリー自身ウォルデモートとの戦いで生き残ったことで、自らの意思に反し常に注目を浴びることに悩んでいたので、この命名はある意味正しかったと言えるかもしれない

*4:最近流行りのキラキラネームだと、どんなに真っ当に生きても名前に追いつくことは出来なくて、改名でもしない限り名前に負け続ける人生を送るのだろうか

*5: 

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

 

 引用箇所の頁は 神吉三郎訳『森の生活(ウォールデン)』岩波書店、1991.より

*6:『森の生活』pp.29-30

*7:『森の生活』p.198