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『ピンクとグレー』読書録

 

ピンクとグレー

ピンクとグレー

 

 

 文庫版『ピンクとグレー』を読んだ。恥ずかしながら、加藤シゲアキの著書は最新作の「傘をもたない蟻たちは」しか読んだことがなかった。『ピンクとグレー』刊行当時は留学中で日本にいなかったからまあ仕方がないとして、2作目の『閃光スクランブル』、そして3作目の『Burn.』は出版日前後にちゃんと購入していたにも関わらず、忙しさにかまけて読む機会を逸し、現在に至っているわけである。まもなく映画も公開されることだし、読むなら今しかないな、と思って、改めて文庫版を買いなおした。1時間弱でさらさらと読めたんだけど、なんか、想像していた物語と全然違った。これは忘れないうちに思考を整理しなければ、そう思って、慌てて筆を執っている。

 

例に漏れずネタバレしまくると思うので一応たたんでおきます。嫌な方はご自身で回避なさってください~。

 

もう初版が出てから丸3年以上経過しているので、今更あらすじを書く必要もないだろうから割愛する。結論から言う、この作品、本当に読みづらかったし分かりづらかった。それは多分、私が作家加藤シゲアキに初めて触れたのが彼の4作目だったからなんだろうと思う。4作目ともなれば多少なりとも洗練されるだろうから、それを処女作と比べること自体間違いなのかもしれない。でも、本当に読みにくかった。

話が現在と過去を行き来すること自体は悪くないと思う。ただ、あまりに場面展開の手法が杜撰で稚拙だと思った。急に話が飛躍するので、我々読者は置いてけぼりを食らうことになる。特に前半部にその傾向が著しい。正直、「は?なんの話してんの?」って部分が何箇所かあった。後半になるにつれ、ストーリーが現在へ追いついていく。ここからは圧巻だった。『ピンクとグレー』という物語は、前半部を勢いで、後半を伏線を回収しながらじっくりと読ませる小説だ。

 

この話の飛躍を補うためなのか、章ごとに“年齢と飲み物”がタイトルとして提示されている。ディスコースマーカー的な役割を担うのかもしれない。この章タイトルを、作中の順番を一旦忘れて、時系列に沿って並べ替えてみたい。

  • 9〜11歳    イチゴオレ(2)
  • 17歳     Dr Pepper(4)
  • 17歳     コーラと加糖コーヒー(6)
  • 20歳     ビールとシャンパン(9)
  • 24歳     ブラックコーヒー(1)
  • 24歳     ミネラルウォーター(5)
  • 24歳     缶のコーンスープ(7)
  • 24歳     紅茶(8)
  • 25歳     シングルモルトウィスキー(3、11)
  • 25歳     チャイナブルー、バーボンソーダ、スノーボール、スコッチ(10)
  • 25歳     ジンジャーエール(12)
  • 26歳     白ワイン 赤ワイン(11)
  • 27歳と139日  ピンクグレープフルーツ(13)

これ、なんか既視感あるな、と思ったら「インターセプト」について同じようなこと書いてたので手前味噌ながら引用します。既視感、っていうけど、ほんとはピングレの方が先なんだよなーと思いつつ。

まず初めに気になったのが、以下の描写。「彼女の瞳は相変わらず冷めきったブラックコーヒーのようだ。しかし俺は負けじと、温かいミルクティーのような眼差しを彼女に向け続ける。(p.162)」舞台は結婚式会場のテラス。すぐそばにはバーカウンターがあり、安未果はディタ・グレープフルーツを、林はロングアイランド・アイスティーをそれぞれ飲んでいるというのに、なぜここで比喩に使われる飲み物はノンアルコールドリンクなのだろうか。例えば黒いカクテルならキューバ・リブレ、ミルクティーのような色合いならカルーアミルクだって当てはまるように思う。作者がここでカクテルを比喩に用いなかった理由が私にはわからない。

インターセプト」はまあ一旦おいといて、『ピンクとグレー』においてはこのアルコールを“含む” “含まない”の差が、結構重要な役割を担っているような気がする。ノンアルコールドリンクには下線を引いた。未成年の頃はもちろん法的にお酒なんて飲めないので、イチゴオレやらコーラやらかわいらしい飲み物が続く。ハタチになってからは人並みにビールやらシングルモルトウイスキーやらお酒を嗜むようになっている。この年を追うにつれての嗜好(思考)の変化が飲むものからも窺えるようにした、ってのは作者なりの工夫なんだろう。

でも、それだけなんだろうか。大人になったからって四六時中お酒ばっか飲んでるわけじゃないし、大人だってイチゴオレが飲みたくなることもある。でもどうして、24歳時点のタイトルは全てノンアルコールドリンクが用いられているのか。もちろん加糖コーヒーだったのがブラックコーヒーになったりと、なんとなく大人になってはいるのだ。この年齢時点で、りばちゃんとごっちには何が起こっていたのか。

 

1章。この章は『ピンクとグレー』のプロローグであると同時に、河鳥大が書き上げた暴露本のプロローグでもあるようだ。というより、最後まで読まないと分からなかったが、おそらくこの『ピンクとグレー』自体がその暴露本の体裁をとっているんだろう。ドキュメンタリー番組(情熱大陸らしい)で白木蓮吾を観たりばちゃんは、変わってしまったと思っていた彼がまだ「ごっち」であったことを受容できない。―そしてそこに、自分の影が跡形もないことも。

5章。りばちゃんは、ふと目にしたテレビ番組(Mステ?)でごっちが歌っていることに衝撃をうける。高校生の頃のバンドでは、決して歌いたがらなかったくせに。そうして懐かしさに駆られたりばちゃんは、「ファレノプシス」の楽譜を久々に取り出して歌ってみる。この時りばちゃんが想いを馳せるのは、高校生の頃一緒にバンドを組んでいたごっちと、芸能界のスターダムに上り詰めて変わってしまったごっち、もとい、白木蓮吾だ。りばちゃんは、高校時代のごっちには才能があったと本気で思っていたし、24歳時点でもその思いは変わっていない。むしろ今はその才能は枯れてしまったんじゃないかとさえ考えているようだ。ごっちは現状に満足しているのか、と煮え切らない疑問を抱いたまま、この章は終わる。

7章。久しぶりに渋谷を訪れたりばちゃんは、デュポンの柱に張り付けられたごっちのヌード写真と出会う。たぶんan・anの広告なんでしょう。この章で語られるのは、ごっちの過去と現在の女性関係だ。読モとしての撮影で代官山にいたごっちとりばちゃんは、サリーと再会する。サリーは同じマンションに住んでいた女の子で、大人たちはごっち、りばちゃん、サリーの3人をスタンド・バイ・ミーと称した。スタンド・バイ・ミーとの関連については後述したいので、ここでは割愛する。

8章。ここでは、ごっちが世間に見つかっていく、芸能界で居場所を獲得していく過程が描かれる。ここで「飯島みなかったか」いうセリフをごっちに言わせる加藤シゲアキが本当に加藤シゲアキだなあ、と思った。どんどん先に進んで行く親友と、箸にも棒にもかからない自分。ひとつ前の記事で述べた「シンメ論」に照らせば、二人は「シンメ」にはふさわしくない。ここで筆者は、共に時を過ごしてきた小山慶一郎のことを想起せずにはいられなかったのではないか。


24歳時点が描かれている章のあらすじを簡単に述べた。「缶のコーンスープ」はサリーを象徴するものであるからひとまず置いておいて、この24歳の時間軸で登場するノンアルコールドリンクは、十代の頃とはまるで異なる。ブラックコーヒー、ミネラルウォーター、紅茶。どれも甘味なんてない。ごっちとりばちゃんが十代にイチゴオレなんかを飲みながら過ごしていた時間を蜜月と呼ぶならば、24歳のこの期間は歴然とした差と嫉妬にまみれた、無機で生産性のない時間だ。

 

次にノンアルコールドリンクがタイトルに使われるのが、12章。25歳の冬、ごっちは自ら命を絶った。その第一発見者となったりばちゃんは、白木蓮吾の死に際としてふさわしいものへとその現場をアレンジしてしまう。そうして現場を離れた後、麻布から渋谷へむかい、公園で証拠を隠滅したりばちゃんは、以前読んだ『華氏451度』を思う。

 

たしかあの本のラスト、焚火でベーコンを焼きながらグレンジャーが不死鳥の話をするんだよな。自分自身を何度も火葬し、その度ごとに灰の中から生まれ変わる不死鳥。人間と似てるって話だっけか。つまりこの煙、妖艶な獣の正体は不死鳥というわけだな。ごっちの燃え上がる遺物のなかで火葬し蘇る不死鳥。しかしながらごっちはもう蘇らない。死んだ不死鳥なのか。待てよ、俺はリバー・フェニックス、河鳥大だ。不死鳥は俺になるのではないか。燃え上がるお前は俺なのか?ではモンターグはごっち……君は俺で、俺は君という……どうかしてる。*1

 

「君は俺で、俺は君」

こんなの始めから提示されていたことなのに、りばちゃんは今頃気づいたのか、と思った。スタンド・バイ・ミーのあらすじを確認しておく。

 

作家ゴードン・ラチャンスはある日、『弁護士クリストファー・チェンパーズ刺殺される』という新聞記事に目をとめ、少年だった頃をふと思い起こす。クリスは、ゴードンの少年の頃の親友だったのだ。

時代は、彼が12歳だったころにさかのぼる。ゴーディ(ゴードンの愛称)は、オレゴン州キャッスルロックの田舎町で育てられる。ゴーディ、クリス、テディ、バーンの4人は、性格も個性も異なっていたがウマが合い、いつも一緒に遊んでいた。木の上に組み立てた秘密小屋の中に集まっては、タバコを喫ったり、トランプをしたり、少年期特有の仲間意識で結ばれている。

ある日バーンは、不良グループである兄たちの会話を盗み聞きしてしまう。3日前から行方不明になっているブラワーという少年が、30キロ先の森の奥で、列車に跳ねられ死体のまま野ざらしになっていることを知る。バーンが、ゴーディたちに話すと、『死体を見つければ有名になる。英雄になれる』と言う動機から、死体探しの旅に4人で出かける。(…)

ひと夏の冒険が終わり、四人はいつものように町外れで別れた。その後は進路もバラバラになり、お互い疎遠になっていく。大人になったゴーディは作家となり、クリスは猛勉強して弁護士に。そのクリスとも最近は10年以上会っていなかったが、クリスが刺殺されたことを告げる新聞記事が、ゴーディに懐かしい過去を思い出させたのだった。仲間との友情、複雑な家庭環境のなかで、あの頃のような友達は、二度とできることはなかったと、ゴーディは静かに思い返す。*2

 

 スタンド・バイ・ミーにおいて、本を書いているのはゴーディの方で、その死をセンセーショナルに報じられているのはリヴァー・フェニックス演じるクリスの方だ。冒頭部でそのニックネームを与えられた時、すでにこの『君が僕で、僕が君』という主体の逆転が発生していた。

ここで主体の逆転に気づいたりばちゃんは、自分が書いた暴露本の映像化で「白木蓮吾」役を演じることで、ますますごっちの側へと急速に接近してゆく。「彼の心臓を再び動かすのは僕しかいない」*3この言葉で、「僕」の中の不死鳥は死に、「彼」の不死鳥が蘇ったのではないか。

 

「白木蓮吾役の河鳥大です」

 言葉にすると、もどかしさと同時にもう一方に抱えていた得体のしれない塊がすとんと腑に落ちた。それをじっくりと感じていた時間、僕は呆然としているように思われていたかもしれない。

 何かきちんと言葉で挨拶しようと思うのだけれど、妙な緊張感が一帯を包んでいて僕は一言しか発せなかった。

「白木より白木になろうと思っています。よろしくお願いします」*4

 そしてごっちの母親から借りた、ごっちの姉の踊る映像を観終わった時。ごっちは、完全にりばちゃんの中へ転生した。りばちゃん自身の意思で。“僕は僕の中にゆっくりと、ごっちを生き返らせていた”*5

 

ここからは、りばちゃんとごっちの区別はない。語り手は紛れもなくごっちなのだけど、これは転生したごっちが語る生前の記憶なのか、りばちゃんが演じるごっちが語るものなのか、よくわからない。二人は同一化した。片方が滅びて、片方が蘇ることで、二つは一つになった。この辺、オニアンコウの話とリンクしてもよさそうなもんだけど、私の理解力じゃうまく繋がらなかった。「ファレノプシス」の歌詞、「それは男?それとも女?」「じゃあ女」だったのが、物語後半では「男?女?」「じゃあ男」に変化しているのも関係ありそうなんだけど、ここがイマイチつかめない。

 

結局この話は何が言いたかったのか、っていうと、りばちゃんはごっちに、ごっちはりばちゃんに、それぞれ憧れて、依存して、生かされていたんだと思う。りばちゃんは結局のところ、芸能界の頂点近くまで上り詰めたごっちが羨ましくて、「あいつは変わった」と自分に言い聞かせることで自我を保っていた。ごっちは自分の意思とは関係なくどんどん人気が上がっていくことにきっと本当は怯えていて、変わらないりばちゃんを傍に置いておくことで自我を保とうとした。二人の自我はもはや共存することは出来なくて、先述したように、どちらかが生き残るためにはどちらかが滅びるしかなかったんだろう。……あれ、ハリポタかな?

 

著者は結末は読者にまかせる、と言っていたようですが。りばちゃんの中に白木蓮吾が、ごっちが生き返ってしまっていた以上、あの場面で彼は死を選ぶしかなかったんだろうと思う。だって、あそこで白木蓮吾は死ぬ運命だったんだから。不死鳥がこの世に存在する限り、きっと何度だって白木蓮吾は蘇ってしまう。だから、あの場面でりばちゃんを殺したのはごっちなんだ、と私は解釈しました。あの場面でりばちゃんの自意識はもはやりばちゃんのものではなくて、ごっちのものだったから。ごっちの自意識の入れ物としてのりばちゃんが死んでしまうのは、当然の結果なんじゃないかと思います。

 

 

二時間くらいで走り書きした感想なので誤字脱字とか話の飛躍とかひどいし毎度ながら長いと思うけどお許しください!それでは置き逃げ!!!

*1:『ピンクとグレー』 p.185

*2:スタンド・バイ・ミー - Wikipedia

*3:p.210

*4:p.217

*5:p.245